自分の声を見つけること
ゲーリー・バーロー

子供の頃、私は非常に愛情深い親を持ち、そして創造的な意欲とインスピレーションを持っていたことを覚えています。私と兄は何かを作ろうと思い付いたら、ほとんど何でも作ることができ、そして実際にそれを実現しました。年を重ねるにつれて、私の中にある、この何かへの親しさから少しずつ遠ざかっていったと覚えています。
私は主に修道女によって教えられるカトリックの小・中学校へ通い、そして大半はイエズス会の神父によって教えられるカトリックの高校へ通い、カトリックとして育てられました。この教育機関に対して多大な敬意を持っていましたが、そこから出た私は、私自身を探していて、また神様をも探し求めていました。多くの教えや美しい言葉がありましたが、言葉で表せないほどに、神様の透き通った光が私の心に触れた、という感じはどこにもなかったのです。
私が法学部進学課程の大学1年目でつまずき続けた時、本当に言葉で表せないほど、音楽の響きが私の心を打つと気が付いたので、それが私の心の拠り所になりました。私は音楽のことを外側から内側へ全て学びました。芸術の学位を取りたいという私の要求と対立した後、両親は私の心の底の望みを信じ始めました。なぜなら、私は自分の中の望みを信じていたからです。彼らは、収入の範囲内で私を最高の音楽学校に送ってくれました。
卒業後、世の中に貢献したいという気持ちで社会に出ましたが、繰り返し、無駄になる気を散らすものに、自分をだんだんと見失っていることに気が付きました。私は、実にならない女性関係から、他のミュージシャンを完全に支援することまで、また有能なプロデューサーになったり、何とかして進めるあらゆる歩道のルートに足を踏み入れましたが、自分の心からの音楽を一音も彼らに演奏することは一切ありませんでした。私は恐怖のために何もできなくなってしまい、そのこと自体さえ分からなかったのです。考えてみてください。自分は盲目なのに、目が見えると思っているようなものです。
1988年にDivine Motherのそばに歩み寄った時、私は今まで感じたことがない何かを感じていて、神様が与えてくださった手掛かりは、全てDivine Motherの足元まで私を導いたと解りました。それらは私を、この完全に謙虚でシンプルな女性へと、そしてシンプルな瞑想へ、また混乱した心から物事を願う代わりに、神様の声を聞くようにと、導きました。意識していないうちに、それどころか、考えていないうちに、私が一生感じて従っていた「インスピレーション」が忍び込んでいたことに気付き始めたのです。それは、私が意外にちゃんと聞いた時でした!
Divine Motherは、私にシュリ・ラーマクリシュナの人生についての特定の本を手に入れて読むように言われ、そうすればDivine Motherのことが解ると言われました。私はその本を読んで、本当に解りました。しかし、この与えられた機会の価値を決して十分に分からず、自分の中の何かが壊れていたということに本当に気が付きませんでした。私はうまくやっていたつもりでした。Divine Motherは何度も、私の人生で私がしていたことよりも、それ以上のことができると、それとなくほのめかされましたが、私は逃げ続けました。
1996年に、私はお互いに非常に破壊的な人間関係にいる自分に気が付きました。私は何年間も、自分自身を他人の目に映る中で探し求めていました。今の付き合いで、相手が私を信じてくれたので、私は自分のことを信じる必要がなかったのです。その上に私ははっきり自己主張ができず、自分に対しても優しくなかったので、その関係は私の人生を完全に支配し始めました。私はまるで溺れてしまうように感じました。
Divine Motherは、多くの私たちのために、惜しみなくできる限りを尽そうと、すぐそばにいてくださったので、私は世界で一番幸運な人間です。一対一の瞑想の間、Divine Motherは、私の非常に戸惑った暗い意識に、聖なる光を敏速に送ってくださいました。私は何年間も次から次へ、そして取っかえ引っかえ、色々なことに気をそらすのに慣れきってしまいました。一つのものが使い果たされると、私は空っぽになったように感じ、次のものを探しました。この探求は私自身の自尊心のためで、終わることの無いものでした。なぜなら、自分の中に存在する神様からそれを見つけるよりはむしろ、外面で、私の自尊心を高めてくれる人から探そうとしていたからです。他の人々の音楽の美しさを見ることができ、かつ彼らの音楽の完成を簡単に手助けすることができても、私の中から出てくる音楽の美しさを全く見ることができませんでした。私の中から湧き出てくる、自分の音楽への信頼がありませんでした。自分の音楽を信用しなかったのです。私は一つの曲さえ仕上げることができませんでした。一対一の瞑想の途中で、ふざけて池の上で踊っていらっしゃるDivine Motherを見ました。そして、Divine Motherは池の中に飛び込まれましたが、「あなたも飛び込んでみたくないの?」と私をなだめて行動させなければなりませんでした。私はどんなに人生の傍観者のまま行き詰まっていたことか! 幾重にも重なる恐怖と否定的な独り言によって、こわばって動けなくなっていました。
すると、聖なる光が稲妻のように入ってきました! 私の心を完全に理解してくださったので、私はDivine Motherに心から感謝しています。Divine Motherは、1996年、1997年、そして1998年の8月の年中行事の祝いで、自分が作った歌を歌うことで、皆に分かち合うように誘ってくださいました。Divine Motherは全く時間を無駄にせず、何年間もの歪みをわずか数か月の間に取り除いてくださいました。
それ以来2年間がたって、「逃げ回るゲーム」に悩まされていた私の人生は完全に逆転しました。神様の恵みにより、その破壊的な関係を手放すことができました。私はもはや寄りかかれる人に魅力を感じません。音楽と歌詞が自由に流れてきて、物事ができると感じられるようになりました。自分自身と他人からの評価を怖がらず、他人と分かち合うことができるようになりました。私は両親と兄と、今までの中で一番親しくなり、20年ぶりに同じ町に住んで、毎週会えるようになりました。私はまだ未熟で、難しい状況が起こりますが、それらを平静に切り抜ける能力が飛躍的に伸びました。
私の最初の焦点は神様であり、そこから命が流れるのです。全てのインスピレーションは真に聖なる愛からくると解るようになりました。それらは導いてくれる一節の光で、今まで感じた最も偉大な一本のその愛の光はDivine Motherから流れてきます。Divine Mother、多くの人々を助けるために、神様の純粋な愛であるDivine Motherの光が流れ広がるように、無条件に与えてくださり、ありがとうございます。私は本当に恵まれていて、そしてこの聖なる光は世界のためだと確信しています。
私は主に修道女によって教えられるカトリックの小・中学校へ通い、そして大半はイエズス会の神父によって教えられるカトリックの高校へ通い、カトリックとして育てられました。この教育機関に対して多大な敬意を持っていましたが、そこから出た私は、私自身を探していて、また神様をも探し求めていました。多くの教えや美しい言葉がありましたが、言葉で表せないほどに、神様の透き通った光が私の心に触れた、という感じはどこにもなかったのです。
私が法学部進学課程の大学1年目でつまずき続けた時、本当に言葉で表せないほど、音楽の響きが私の心を打つと気が付いたので、それが私の心の拠り所になりました。私は音楽のことを外側から内側へ全て学びました。芸術の学位を取りたいという私の要求と対立した後、両親は私の心の底の望みを信じ始めました。なぜなら、私は自分の中の望みを信じていたからです。彼らは、収入の範囲内で私を最高の音楽学校に送ってくれました。
卒業後、世の中に貢献したいという気持ちで社会に出ましたが、繰り返し、無駄になる気を散らすものに、自分をだんだんと見失っていることに気が付きました。私は、実にならない女性関係から、他のミュージシャンを完全に支援することまで、また有能なプロデューサーになったり、何とかして進めるあらゆる歩道のルートに足を踏み入れましたが、自分の心からの音楽を一音も彼らに演奏することは一切ありませんでした。私は恐怖のために何もできなくなってしまい、そのこと自体さえ分からなかったのです。考えてみてください。自分は盲目なのに、目が見えると思っているようなものです。
1988年にDivine Motherのそばに歩み寄った時、私は今まで感じたことがない何かを感じていて、神様が与えてくださった手掛かりは、全てDivine Motherの足元まで私を導いたと解りました。それらは私を、この完全に謙虚でシンプルな女性へと、そしてシンプルな瞑想へ、また混乱した心から物事を願う代わりに、神様の声を聞くようにと、導きました。意識していないうちに、それどころか、考えていないうちに、私が一生感じて従っていた「インスピレーション」が忍び込んでいたことに気付き始めたのです。それは、私が意外にちゃんと聞いた時でした!
Divine Motherは、私にシュリ・ラーマクリシュナの人生についての特定の本を手に入れて読むように言われ、そうすればDivine Motherのことが解ると言われました。私はその本を読んで、本当に解りました。しかし、この与えられた機会の価値を決して十分に分からず、自分の中の何かが壊れていたということに本当に気が付きませんでした。私はうまくやっていたつもりでした。Divine Motherは何度も、私の人生で私がしていたことよりも、それ以上のことができると、それとなくほのめかされましたが、私は逃げ続けました。
1996年に、私はお互いに非常に破壊的な人間関係にいる自分に気が付きました。私は何年間も、自分自身を他人の目に映る中で探し求めていました。今の付き合いで、相手が私を信じてくれたので、私は自分のことを信じる必要がなかったのです。その上に私ははっきり自己主張ができず、自分に対しても優しくなかったので、その関係は私の人生を完全に支配し始めました。私はまるで溺れてしまうように感じました。
Divine Motherは、多くの私たちのために、惜しみなくできる限りを尽そうと、すぐそばにいてくださったので、私は世界で一番幸運な人間です。一対一の瞑想の間、Divine Motherは、私の非常に戸惑った暗い意識に、聖なる光を敏速に送ってくださいました。私は何年間も次から次へ、そして取っかえ引っかえ、色々なことに気をそらすのに慣れきってしまいました。一つのものが使い果たされると、私は空っぽになったように感じ、次のものを探しました。この探求は私自身の自尊心のためで、終わることの無いものでした。なぜなら、自分の中に存在する神様からそれを見つけるよりはむしろ、外面で、私の自尊心を高めてくれる人から探そうとしていたからです。他の人々の音楽の美しさを見ることができ、かつ彼らの音楽の完成を簡単に手助けすることができても、私の中から出てくる音楽の美しさを全く見ることができませんでした。私の中から湧き出てくる、自分の音楽への信頼がありませんでした。自分の音楽を信用しなかったのです。私は一つの曲さえ仕上げることができませんでした。一対一の瞑想の途中で、ふざけて池の上で踊っていらっしゃるDivine Motherを見ました。そして、Divine Motherは池の中に飛び込まれましたが、「あなたも飛び込んでみたくないの?」と私をなだめて行動させなければなりませんでした。私はどんなに人生の傍観者のまま行き詰まっていたことか! 幾重にも重なる恐怖と否定的な独り言によって、こわばって動けなくなっていました。
すると、聖なる光が稲妻のように入ってきました! 私の心を完全に理解してくださったので、私はDivine Motherに心から感謝しています。Divine Motherは、1996年、1997年、そして1998年の8月の年中行事の祝いで、自分が作った歌を歌うことで、皆に分かち合うように誘ってくださいました。Divine Motherは全く時間を無駄にせず、何年間もの歪みをわずか数か月の間に取り除いてくださいました。
それ以来2年間がたって、「逃げ回るゲーム」に悩まされていた私の人生は完全に逆転しました。神様の恵みにより、その破壊的な関係を手放すことができました。私はもはや寄りかかれる人に魅力を感じません。音楽と歌詞が自由に流れてきて、物事ができると感じられるようになりました。自分自身と他人からの評価を怖がらず、他人と分かち合うことができるようになりました。私は両親と兄と、今までの中で一番親しくなり、20年ぶりに同じ町に住んで、毎週会えるようになりました。私はまだ未熟で、難しい状況が起こりますが、それらを平静に切り抜ける能力が飛躍的に伸びました。
私の最初の焦点は神様であり、そこから命が流れるのです。全てのインスピレーションは真に聖なる愛からくると解るようになりました。それらは導いてくれる一節の光で、今まで感じた最も偉大な一本のその愛の光はDivine Motherから流れてきます。Divine Mother、多くの人々を助けるために、神様の純粋な愛であるDivine Motherの光が流れ広がるように、無条件に与えてくださり、ありがとうございます。私は本当に恵まれていて、そしてこの聖なる光は世界のためだと確信しています。