虐待からの回復
ケイ・デイ

見かけは正常で成功した女性実業家の私を見ると、誰一人として、私が子供の頃から苦しんでいた長年の性的、感情的、精神的虐待を推測することはありませんでした。私は否認の達人になっていました。否認は私を痛みと苦しみから守っていたのです。
私は、マウイ島で勤勉な日系の若い夫婦の3人の子供の2番目として生まれました。彼らは私たち3人を愛してくれましたが、真ん中の子供として、私は放っておかれ、望まれなく、無視されたように感じました。一方では、私の姉(第一子)はとても可愛がられ、甘やかされ、そして、私の弟(長男)はアジアの家族の価値観によって、床の間に飾られるように大事にされました。
虐待は(そしてその否認は)6歳の頃に始まり、叔父の性的な悪戯を無言の恐怖で辛抱しました。9歳で、担任の教師のたった一人のいじめの対象になりました。その残酷さと不公平さは、オール5の生徒をやっと3がもらえる、怖がりの生徒に変えてしまいました。私は毎日その品位を傷つける扱い方と虐待の的になりました。両親に、先生が「意地悪」だから学校に行くのが怖いと言った時、私の心配事は無視され、いい子だから学校へ行くようにと言われました。私は言われたようにして、1年間毎日のいじめに無言で耐えました。私は、私を傷つけ続ける世の中から自分を守るために、自己防衛の層を作り始めました。
私の両親に根付いた、冷静に物事を我慢すること、くじけないで頑張ること、従順さ、親孝行という日本の古い時代の姿勢と価値観が子供にそのまま伝えられました。しかし、このような価値観は、20世紀の真ん中で育ったアメリカ人の女の子の人生をもっと複雑にしました。ティーンエージャーの私は、ずっと望んでいた注目を得る方法を発見しましたが、それが間違った注目を集めてしまうとは知りませんでした。男の子の注目を引くことができるということに気が付きました! 私の中のそれまで無視されてきた子供は、その注目を大いに楽しんで、ませた、気のあるそぶりの、色っぽい外見を作り上げました。しかし、私が作り上げてきた人格は、私が望んでいない人々を引きつけ、その結果虐待が繰り返され、その虐待者たちは、いつも私が信頼していた人たちばかりでした。
あるボーイフレンドによる肉体的虐待、違うボーイフレンドによる精神的、感情的な虐待。歯医者による性的虐待。デートの相手から銃を突き付けられた、残忍なレイプ。そして、私が神様を捜し求めて頼っていった、スピリチュアルな教師と自称する男による最悪の侵害。その男が私を性的に虐待し、私を神様を信頼できない人間にしてしまいました。
全ての出来事で、私は一度も叫んだり、泣いたり、襲った相手に対し抵抗しようとはしませんでした。私は、ただ無言になり、全てが終わるのを待ちました。私は家族や友人や警察へ助けを求めず、自分でただ全てを潜在意識の深くて暗い片隅に押し込みました。そうすることにより、私はこの状況に片をつけたつもりでした。私は立ち上がり、ほこりを払って肩を張り、通常の生活に戻って行きました。結局、私は小さい頃から自分が恥をかかないように、また、家族に恥をかかせないように、強くなることや、静かに不快なことを押し隠すように教わったからです。もし、私が今までの出来事のいずれかを誰かに話したとすれば、まるで、ニュースレポーターが感情抜きで他人のことを話しているように報告しました。そして、虐待に対する私の感情は、無意識の中のとても奥深い場所に押しこまれたので、私は、そのことをすでに乗り越えたのだと思っていました。
私はいつも一番であるように、最も賢く、美しく、誰よりも体力があり、尊敬され、最も成功したように成し遂げるため、自分を容赦なく駆り立てました。私は成功の証を築くことにより、恐怖と苦しみを消すことができるか、あるいは、少なくともカモフラージュできると思っていたのです。しかし何も、私の中で感じていた恐れと絶望をなだめることはできないようでした。
初めてDivine Motherとお会いした時、私の状態はこういう否認と孤立した状態でした。私は結婚と新しい生活へ逃げ込もうという気持ちで、数年間本土に住んでいましたが、クリスマスの休暇のためハワイに帰っていました。私がDivine Motherの家に入ろうとした時、Divine Motherは、私を見上げ「まあ、かわいそうに。お入り、お入り」とおっしゃいました。なぜ私のことを「かわいそうに」と呼ばれるんだろう? 外見上、私は全てを持っているかのように見えました。その時は分かりませんでしたが、Divine Motherは、私の心の奥を覗かれ、私の苦しみを見て、愛情を込めて私に完全に注意を向けてくださいました。そして、私の心を癒し始めてくださいました。
Divine Motherは、その2日後、1987年のクリスマス・イブに私の入門を許してくださいました。Divine Motherは、私がどれほどまでにDivine Motherを必要としていたかをご存知だったのでしょう。その瞬間から、私を理解して、無条件に受け入れて愛してくださる、頼みの綱になる方を見つけたと感じました。その後5年間、私はDivine Motherと連絡できたのは、電話で話したときと、私が年に1度ハワイへ帰ったときでした。それらの電話が、私のDivine Motherとのつながりを保ってくれました。Divine Motherが、矢継ぎ早で、単刀直入で、完全に集中したやり方で話されたことを聞き逃さないように、受話器を耳にしっかりと当てて、目を閉じ、聞いたことを思い出します。
離婚してハワイへ戻った時、スピリチュアル・ファミリーとの瞑想の集まりに毎週参加し始めました。しかし、私は仕事と体を鍛えること、そして、友人とボーイフレンドたちに自分の意識を集中させました。神様は私の人生の一部でしたが、他の多くの優先事項とごちゃ混ぜになっていました。
Divine Motherの澄んだ真っ直ぐな視線の下で、私は、大変居心地の悪い思いをし、そわそわしました。Divine Motherが、愛と思いやりを持って、私を見つめてくださり、私が降伏して神様の元へ来ることを望んでいらっしゃったということを、私は解りませんでした。Divine Motherは、どうやって自分の問題の根本的な原因を明らかにすればいいか、率直に分かりやすく説明なさいましたが、私はそういうことに触れたくなかったのです。私は何度も何度も裏切られたのです。私は誰も信用できなかったのです......神様さえもです。したがって、私はさらに数年間、自分の経験や気持ちを否認しながら苦しみ続けましたが、瞑想の集まりに行くことだけは決してやめませんでした......そしてDivine Motherも私のことを諦めないでくださいました。
1997年にDivine Motherは、私たちを「集中的な指導」という過程に紹介してくださいました......私たちそれぞれを神様を知ることから邪魔をする、個人的な問題の根っこを探ろうとする一日中のセッションでした。その集中的な指導自体は、私たちが肉体的、そして感情的な苦痛を、安全で愛に囲まれた場所で発散できるセッションとなりました。私の抑えられていた感情が解き放された時、その悲しみ、恐怖、怒り、そして痛みが、同時に激しい波のように流れ出してきました。私が潜在意識の中に詰め込んだ、全ての表現されていない苦悩と心の傷が溢れ出てきました。しかし、愛情のこもったまなざしで私を見つめていらっしゃるDivine Motherがそこにおられ、私は安全であることが分かっていました。どんなカウンセリングや心理療法、また、人間の領域の他のどんな手段でも、私を束縛する恐れと長年における否認から、このように解放することができなかったでしょう。それらの問題と感情は直面させられただけではなく、神様の恵みによって完全に消され、そして、それは私に影響を与えなくなったのです。
その変化は驚くべきものでした。私は、鎧の一式を脱ぎ、盾と重い武器を下ろして、全く違ったやり方で神様の愛と人生を体験しています。神様は、私を「休戦」させ、リラックスして今後の人生を楽しめるようにしてくださいました。最も重大な変化は焦点の移動、つまり、私の人生において優先順位を変えて、神様を一番上に置いたことです。これは、一つの目標、つまり、神様への奉仕に意識と努力を集中させることにより、私の人生をシンプルにしました。そして、その神への奉仕は、Divine Motherが「聖地」と呼ばれた場所......ちょうど私が立っている場所で......つまり私の職場、個人的な人間関係 、また人生の平凡な毎日の行為と関わりの中で、 毎日行われることです。神様を第一にして、Divine Motherの指導に最大の信頼を持つことで、私は努力の結果への強迫観念を失いました。その代わり、もしその任務が神様への敬虔なる奉仕として行われれば、その結果はどうであれ、それでいいということが分かるようになりました。
数年後Divine Motherは、私にもう一つの信じられないほどの贈り物を下さいました。私は自分の人生に少し「ひびが入った」ような気がしていました。なぜなら、私の新しい、神への奉仕が一番大事なものになり、彼氏のエディが第2の位置へ格下げされたからです。それまでは、私の人生の二つの部分が一つになれるということを考えたこともなかったのです。Divine Motherが、エディをスピリチュアル・ファミリーにお招きくださった時(またそれを彼が心から受け入れた時)、エディは、私の神様への愛とDivine Motherへの献身の一部となり、そして、それは私たちの関係(また彼の人生)を喜びと調和の新しい段階へと向かわせてくださいました。Divine Motherは、2001年にホノルルでの私たちの結婚式に出席されることによって、私たちを祝福してくださいました。
Divine Motherが、愛情を込めて私の封じられた心を開かれた時から、その心の全てを神様に捧げました。今になって分かるようになりましたが、愛する人々、私の仕事、私の体自体は、私の人生の中でほんの一時的な幸せと心地よさを与えてくれるだけです。私は神様を、そして、永遠を信頼することに決めました......Divine Motherは決して私を見放されないと、疑いなく信じているからです。
私は、マウイ島で勤勉な日系の若い夫婦の3人の子供の2番目として生まれました。彼らは私たち3人を愛してくれましたが、真ん中の子供として、私は放っておかれ、望まれなく、無視されたように感じました。一方では、私の姉(第一子)はとても可愛がられ、甘やかされ、そして、私の弟(長男)はアジアの家族の価値観によって、床の間に飾られるように大事にされました。
虐待は(そしてその否認は)6歳の頃に始まり、叔父の性的な悪戯を無言の恐怖で辛抱しました。9歳で、担任の教師のたった一人のいじめの対象になりました。その残酷さと不公平さは、オール5の生徒をやっと3がもらえる、怖がりの生徒に変えてしまいました。私は毎日その品位を傷つける扱い方と虐待の的になりました。両親に、先生が「意地悪」だから学校に行くのが怖いと言った時、私の心配事は無視され、いい子だから学校へ行くようにと言われました。私は言われたようにして、1年間毎日のいじめに無言で耐えました。私は、私を傷つけ続ける世の中から自分を守るために、自己防衛の層を作り始めました。
私の両親に根付いた、冷静に物事を我慢すること、くじけないで頑張ること、従順さ、親孝行という日本の古い時代の姿勢と価値観が子供にそのまま伝えられました。しかし、このような価値観は、20世紀の真ん中で育ったアメリカ人の女の子の人生をもっと複雑にしました。ティーンエージャーの私は、ずっと望んでいた注目を得る方法を発見しましたが、それが間違った注目を集めてしまうとは知りませんでした。男の子の注目を引くことができるということに気が付きました! 私の中のそれまで無視されてきた子供は、その注目を大いに楽しんで、ませた、気のあるそぶりの、色っぽい外見を作り上げました。しかし、私が作り上げてきた人格は、私が望んでいない人々を引きつけ、その結果虐待が繰り返され、その虐待者たちは、いつも私が信頼していた人たちばかりでした。
あるボーイフレンドによる肉体的虐待、違うボーイフレンドによる精神的、感情的な虐待。歯医者による性的虐待。デートの相手から銃を突き付けられた、残忍なレイプ。そして、私が神様を捜し求めて頼っていった、スピリチュアルな教師と自称する男による最悪の侵害。その男が私を性的に虐待し、私を神様を信頼できない人間にしてしまいました。
全ての出来事で、私は一度も叫んだり、泣いたり、襲った相手に対し抵抗しようとはしませんでした。私は、ただ無言になり、全てが終わるのを待ちました。私は家族や友人や警察へ助けを求めず、自分でただ全てを潜在意識の深くて暗い片隅に押し込みました。そうすることにより、私はこの状況に片をつけたつもりでした。私は立ち上がり、ほこりを払って肩を張り、通常の生活に戻って行きました。結局、私は小さい頃から自分が恥をかかないように、また、家族に恥をかかせないように、強くなることや、静かに不快なことを押し隠すように教わったからです。もし、私が今までの出来事のいずれかを誰かに話したとすれば、まるで、ニュースレポーターが感情抜きで他人のことを話しているように報告しました。そして、虐待に対する私の感情は、無意識の中のとても奥深い場所に押しこまれたので、私は、そのことをすでに乗り越えたのだと思っていました。
私はいつも一番であるように、最も賢く、美しく、誰よりも体力があり、尊敬され、最も成功したように成し遂げるため、自分を容赦なく駆り立てました。私は成功の証を築くことにより、恐怖と苦しみを消すことができるか、あるいは、少なくともカモフラージュできると思っていたのです。しかし何も、私の中で感じていた恐れと絶望をなだめることはできないようでした。
初めてDivine Motherとお会いした時、私の状態はこういう否認と孤立した状態でした。私は結婚と新しい生活へ逃げ込もうという気持ちで、数年間本土に住んでいましたが、クリスマスの休暇のためハワイに帰っていました。私がDivine Motherの家に入ろうとした時、Divine Motherは、私を見上げ「まあ、かわいそうに。お入り、お入り」とおっしゃいました。なぜ私のことを「かわいそうに」と呼ばれるんだろう? 外見上、私は全てを持っているかのように見えました。その時は分かりませんでしたが、Divine Motherは、私の心の奥を覗かれ、私の苦しみを見て、愛情を込めて私に完全に注意を向けてくださいました。そして、私の心を癒し始めてくださいました。
Divine Motherは、その2日後、1987年のクリスマス・イブに私の入門を許してくださいました。Divine Motherは、私がどれほどまでにDivine Motherを必要としていたかをご存知だったのでしょう。その瞬間から、私を理解して、無条件に受け入れて愛してくださる、頼みの綱になる方を見つけたと感じました。その後5年間、私はDivine Motherと連絡できたのは、電話で話したときと、私が年に1度ハワイへ帰ったときでした。それらの電話が、私のDivine Motherとのつながりを保ってくれました。Divine Motherが、矢継ぎ早で、単刀直入で、完全に集中したやり方で話されたことを聞き逃さないように、受話器を耳にしっかりと当てて、目を閉じ、聞いたことを思い出します。
離婚してハワイへ戻った時、スピリチュアル・ファミリーとの瞑想の集まりに毎週参加し始めました。しかし、私は仕事と体を鍛えること、そして、友人とボーイフレンドたちに自分の意識を集中させました。神様は私の人生の一部でしたが、他の多くの優先事項とごちゃ混ぜになっていました。
Divine Motherの澄んだ真っ直ぐな視線の下で、私は、大変居心地の悪い思いをし、そわそわしました。Divine Motherが、愛と思いやりを持って、私を見つめてくださり、私が降伏して神様の元へ来ることを望んでいらっしゃったということを、私は解りませんでした。Divine Motherは、どうやって自分の問題の根本的な原因を明らかにすればいいか、率直に分かりやすく説明なさいましたが、私はそういうことに触れたくなかったのです。私は何度も何度も裏切られたのです。私は誰も信用できなかったのです......神様さえもです。したがって、私はさらに数年間、自分の経験や気持ちを否認しながら苦しみ続けましたが、瞑想の集まりに行くことだけは決してやめませんでした......そしてDivine Motherも私のことを諦めないでくださいました。
1997年にDivine Motherは、私たちを「集中的な指導」という過程に紹介してくださいました......私たちそれぞれを神様を知ることから邪魔をする、個人的な問題の根っこを探ろうとする一日中のセッションでした。その集中的な指導自体は、私たちが肉体的、そして感情的な苦痛を、安全で愛に囲まれた場所で発散できるセッションとなりました。私の抑えられていた感情が解き放された時、その悲しみ、恐怖、怒り、そして痛みが、同時に激しい波のように流れ出してきました。私が潜在意識の中に詰め込んだ、全ての表現されていない苦悩と心の傷が溢れ出てきました。しかし、愛情のこもったまなざしで私を見つめていらっしゃるDivine Motherがそこにおられ、私は安全であることが分かっていました。どんなカウンセリングや心理療法、また、人間の領域の他のどんな手段でも、私を束縛する恐れと長年における否認から、このように解放することができなかったでしょう。それらの問題と感情は直面させられただけではなく、神様の恵みによって完全に消され、そして、それは私に影響を与えなくなったのです。
その変化は驚くべきものでした。私は、鎧の一式を脱ぎ、盾と重い武器を下ろして、全く違ったやり方で神様の愛と人生を体験しています。神様は、私を「休戦」させ、リラックスして今後の人生を楽しめるようにしてくださいました。最も重大な変化は焦点の移動、つまり、私の人生において優先順位を変えて、神様を一番上に置いたことです。これは、一つの目標、つまり、神様への奉仕に意識と努力を集中させることにより、私の人生をシンプルにしました。そして、その神への奉仕は、Divine Motherが「聖地」と呼ばれた場所......ちょうど私が立っている場所で......つまり私の職場、個人的な人間関係 、また人生の平凡な毎日の行為と関わりの中で、 毎日行われることです。神様を第一にして、Divine Motherの指導に最大の信頼を持つことで、私は努力の結果への強迫観念を失いました。その代わり、もしその任務が神様への敬虔なる奉仕として行われれば、その結果はどうであれ、それでいいということが分かるようになりました。
数年後Divine Motherは、私にもう一つの信じられないほどの贈り物を下さいました。私は自分の人生に少し「ひびが入った」ような気がしていました。なぜなら、私の新しい、神への奉仕が一番大事なものになり、彼氏のエディが第2の位置へ格下げされたからです。それまでは、私の人生の二つの部分が一つになれるということを考えたこともなかったのです。Divine Motherが、エディをスピリチュアル・ファミリーにお招きくださった時(またそれを彼が心から受け入れた時)、エディは、私の神様への愛とDivine Motherへの献身の一部となり、そして、それは私たちの関係(また彼の人生)を喜びと調和の新しい段階へと向かわせてくださいました。Divine Motherは、2001年にホノルルでの私たちの結婚式に出席されることによって、私たちを祝福してくださいました。
Divine Motherが、愛情を込めて私の封じられた心を開かれた時から、その心の全てを神様に捧げました。今になって分かるようになりましたが、愛する人々、私の仕事、私の体自体は、私の人生の中でほんの一時的な幸せと心地よさを与えてくれるだけです。私は神様を、そして、永遠を信頼することに決めました......Divine Motherは決して私を見放されないと、疑いなく信じているからです。