多元主義と自己同一性
(1997年2月のインターネット上のディスカッション・フォーラムより)
多元主義と自己同一性
日付:1997年2月28日、金曜日
オードリー・キタガワより
capti-l@hawaii.edu宛て
件名:自己同一性
こんにちは、私の名前はオードリー・キタガワです。私は多元主義と自己同一性についての今月の議論に参加するように依頼されました。
外面的な自己は、外の世界との関わりと経験の積み重ねによって自分自身を定義します。外面的な自己は、自分の価値と大切さを、名前と名声、そして物質的な豊かさと業績のようなものによって定義します。私はこれらを「人生の木の果実」と呼ぶことにします。これらの経験や関わりは、外面的な自己に影響や結果をもたらすにもかかわらず、外面的な自己を超越する内なる自己があり、それは外面的な自己が携わる無数の活動によって影響を受けません。この内なる自己が聖なる自己なのです。それは、おのおのが実現することを求めている、純粋で無条件の愛の源です。名前、名声、そして富は消え去ることもありますが、内なる自己は残ります。この内なる自己は、決して消滅させられることも、衰えさせられることもなく、私たちが実際に何者であるかというものの本質なのです。
外面的な自己は、人生の木の果実に満足感を探し求め、自らにこれらの果実を収集することに莫大なエネルギーを費やします。 収集と獲得の過程で、ある程度の満足感を経験したとしても、それと同時に、その集めた果実を失う根本的な緊張感や恐れがあり、あるいは多大なエネルギーを費やしたにもかかわらず、結局はその果実が自分にふさわしくないか、望ましくないと気付くと、その後、失望感が起こります。外面的な自己は、この入り組んだ相互作用、つまり取得への欲求、得たものを失うことへの恐れ、または望んでいるものを手に入れられないという恐れに絶えず取り組んでいるので、その結果、満たされないと感じるのです。外面的な自己は、世俗的で相反する関心事による緊張と欲望の領域に存在し、やがて疲れ果ててしまいます。
ある時点で、個人は自分は一体誰であるかという、より深い核心部を再評価し、再検討するべきです。私の仕事や、いくらかの、肩書き、家や車、そして銀行の口座や人間関係などを、私から取り去った後に残る私は何者なのでしょうか? 名前、形、肩書きになった前、先立って存在していた私は誰で、これらを取り除く後に存在する私は誰でしょうか? 私たちは、つかの間の外面的な自己ではなく、この永遠で不死の自己であるため、実現すべきなのはこの本質的な内なる自己なのです。私たちの真の喜びと満足感を、はかないものの中に得ることができないという認識が生じるとき、世俗の領域の経験は、私たちを内なる自己を探求するように推進します。
オードリー・キタガワ
検索
日付:1997年2月28日、金曜日
オードリー・キタガワより
capti-l@hawaii.edu宛て
件名:自己同一性
こんにちは、私の名前はオードリー・キタガワです。私は多元主義と自己同一性についての今月の議論に参加するように依頼されました。
外面的な自己は、外の世界との関わりと経験の積み重ねによって自分自身を定義します。外面的な自己は、自分の価値と大切さを、名前と名声、そして物質的な豊かさと業績のようなものによって定義します。私はこれらを「人生の木の果実」と呼ぶことにします。これらの経験や関わりは、外面的な自己に影響や結果をもたらすにもかかわらず、外面的な自己を超越する内なる自己があり、それは外面的な自己が携わる無数の活動によって影響を受けません。この内なる自己が聖なる自己なのです。それは、おのおのが実現することを求めている、純粋で無条件の愛の源です。名前、名声、そして富は消え去ることもありますが、内なる自己は残ります。この内なる自己は、決して消滅させられることも、衰えさせられることもなく、私たちが実際に何者であるかというものの本質なのです。
外面的な自己は、人生の木の果実に満足感を探し求め、自らにこれらの果実を収集することに莫大なエネルギーを費やします。 収集と獲得の過程で、ある程度の満足感を経験したとしても、それと同時に、その集めた果実を失う根本的な緊張感や恐れがあり、あるいは多大なエネルギーを費やしたにもかかわらず、結局はその果実が自分にふさわしくないか、望ましくないと気付くと、その後、失望感が起こります。外面的な自己は、この入り組んだ相互作用、つまり取得への欲求、得たものを失うことへの恐れ、または望んでいるものを手に入れられないという恐れに絶えず取り組んでいるので、その結果、満たされないと感じるのです。外面的な自己は、世俗的で相反する関心事による緊張と欲望の領域に存在し、やがて疲れ果ててしまいます。
ある時点で、個人は自分は一体誰であるかという、より深い核心部を再評価し、再検討するべきです。私の仕事や、いくらかの、肩書き、家や車、そして銀行の口座や人間関係などを、私から取り去った後に残る私は何者なのでしょうか? 名前、形、肩書きになった前、先立って存在していた私は誰で、これらを取り除く後に存在する私は誰でしょうか? 私たちは、つかの間の外面的な自己ではなく、この永遠で不死の自己であるため、実現すべきなのはこの本質的な内なる自己なのです。私たちの真の喜びと満足感を、はかないものの中に得ることができないという認識が生じるとき、世俗の領域の経験は、私たちを内なる自己を探求するように推進します。
オードリー・キタガワ
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