私のベトナム戦争の経験を癒すこと
テッド・カナモリ

Divine Motherの前に座ったことがある人は誰でも、神様のみが与えられる無条件で純粋な愛情を体験したと、私は分かっています。私も恵まれたことにDivine Motherの聖なる愛を個人的に経験したことがあります。誰かが私をこんなに愛することができるとは全く想像がつきませんでした。なぜなら、私は生まれた時からずっとその愛を探し求めていたからです。
私は第2次世界大戦の終わりにカリフォルニア州のTule Lake(鶴嶺湖)の収容所で生まれ、その後父方の祖父が家族全員を日本へ連れて帰りました。若い両親にとって、慣れていない国である、戦争の焼け跡の日本で生き残ることは辛かったに違いありません。医療は進んでおらず、父は常に喘息で苦しんでいたようでした。私は乳児の時、ジフテリアにかかって死にかかりました。私たちは、私が13歳になるまで日本に住んでいて、日本での子供の頃の思い出は心地よいものではありませんでした。日本人にはアメリカ人として見られ、そしてアメリカの軍事扶養家族には「敵」と見なされ、私はのけ者にされているように感じました。
また私たちは両親の間の様々な不調和と不幸せを経験しました。私と2人の兄弟は、よく両親の暴力も口論も聞かされました。その上私は、部屋代と食事代の代わりに家事をする住み込みの女中と、父親が浮気をしているところも、目の当たりにしました。私にとってそれを見るのが非常に辛く、衝撃的でした。父はとても虐待的な男性で、繰り返し私を見下し、彼は私よりも強く、見た目がよく、彼なしでは、私は決して生きていけないとあざ笑いました。父は私の自尊心を破壊するためにありとあらゆることをしました。父は喘息だったため、あまり仕事をせず、ほとんど家にいました。私は彼のそばにいるのが常に居心地が悪かったため、私と兄弟はいつもできるだけ家の外で遊ぶようにしていました。父の気分が良くなると、私たちに野球を教えようとしましたが、あまりにも厳しかったので、楽しかった記憶は全くありません。
母と母方の祖母は私たちに対して心が広く、親切でした。振り返ってみると、母と祖母は私たち兄弟に必要な愛と安定感を与えてくれたのです。また、一生懸命働いて、米海軍の良い仕事に就いていた母のおかげで、私と兄弟は恵まれたことに私立のカトリック系の男子校に通うことができました。その時、私たちの宗教的な背景は両親と異なっていても、私たちが受けた宗教的な教育が、必要としていた安心感とさらなる感情的な支えをも与えてくれました。私たち兄弟は家にイエス様と聖母マリヤ様の聖壇があり、そこでお祈りをしていました。
私が13歳の時、私たち家族はカリフォルニアに戻り、その1年前にカリフォルニアに帰っていた父と合流しました。彼は生活が落ち着いていたようで、一生懸命庭師として働き、私たちに良い家を準備してくれました。私は痛々しいほど恥ずかしがり屋だったので、アメリカの生活に馴染むのが難しかったです。もう一つ困ったことに、私が通わされた新しい学校は男女共学でした。私はまだのけ者のように感じ、どこにも属せず、誰にも溶け込めずにいました。人種的にも社会経済的にも、私は差別されたような気がしました。間もなく、私たちの家族構造は悪化し始めました。父は健康状態がよくなったようで、また浮気をし始め、その上、債権者に追われるような投資に資金を次々と注ぎ込み、莫大な借金を負い始めました。弟が高校を終えた時、両親が離婚して、私たち兄弟は母についてロサンゼルスに行きました。私は大学に通いながらアルバイトをしましたが、これという目的もなしに、成績はほどほどで、大学の単位を取るのも遅れていました。その時でした。私が軍隊に召集され、6か月以内に、1967年に私はベトナムに行くはめになりました。なぜか、対立やけんかをその時までずっと避けてきた、私のような弱い社会性のない者が戦いに無理やり行かされたことが不公平に思われました。私はわずか19か月間、軍隊に勤め、そのうち14か月間ベトナムに行かされ、その時期が私の必死に忘れたい人生の一部となりました。
戦闘兵としてやっていけないとある軍曹に告げたため、私のベトナムの経験は恥でいっぱいでした。殺し合いと戦いでひどく精神的衝撃を受け、私は本当に気が狂いそうでした。私はその後本部に転送され、供給の事務員としての仕事を与えられました。私は自分自身とベトナムにいる兵隊皆に、特に戦死した友人や4度も負傷した友人に、不名誉なことをしたと感じました。私は前線から外された挫折感と罪悪感を乗り越えることができませんでした。私の人生のこの時期の出来事を完全に胸の中に秘め、私はベトナムのことは一切口にしませんでした。
ベトナムの後、私は大学に戻り、復員軍人援護法のおかげで歯学部に進むことができました。1975年に歯学部を卒業後、私は1年間、ホノルルのセント・フランシス病院の一般歯科の研修医として務め、生まれて初めて自分の居場所を見つけたように感じたので、しばらくの間、滞在することにしました。共同教育事業を通して、ゲイリー・ウメダと知り合って、私たちは親しい友人になりました。今日、彼は私の一番親しい友人で、彼が間接的に私がDivine Motherとお会いすることに関与しました。ゲイリーはDivine Motherを私の義母のフランに紹介して、義母は同じく私をDivine Motherの所に連れて行ってくれました。1983年に私はDivine Motherにお会いしました。Divine Motherがどのようにフランと私の義理の妹のアイリスを助けてくださったかを見ることができました。その上、ゲイリーがDivine Motherとお会いしていたと知っていて、彼に起こった前向きな変化を目の当たりにしたので、私もDivine Motherにお会いしたかったのです。Divine Motherと初めてお会いしたその瞬間から、Divine Motherはすぐに私をとてもくつろいだ気持ちにしてくださり、私のことを私自身よりも、もっと理解してくださいました。
妻のウェンディに出会ったのは病院のプログラムの後の務め先のオフィスでした。私たちは1978年に結婚しました。私たちはマウイ島に引越し、そこで私は自分の歯科診療所を開業しました。2人の素晴らしい息子に恵まれ、私の診療所は大成功し、人生はとてもうまくいっていました。これで私たちは末永く幸せに暮らせると思いました。私がその時までずっと望んでいたこと、つまり経済的な安定と健康的な家庭生活を手に入れたように見えました。しかし、どういう訳か心の空白があり、どうやってそれを埋めればいいかが分からなかったのです。スポーツや趣味を通して、その空白を埋めるものを外で見つけようと努力しているうちに、妻と子供たちにとって私は不在となりました。Divine Motherと瞑想のグループと一緒に座るために、私とウェンディは月に1度ぐらいマウイ島からオアフ島に来ました。Divine Motherと前回お会した時から私たちに蓄積した重荷を、Divine Motherは取り除いてくださいました。その当時、私は本当に頂くばかりで、Divine Motherが実際に何を下さっていたのかに気が付かず、ただDivine Motherが私を気持ち良くしてくださることに満足していました。最初ウェンディは愛情に餓えており、あれこれ構ってもらうことと、物質的に満たされることを必要としていました。彼女は私たち2人の子供に執着するようになり、他の男性たちに惹かれ始めました。1990年のある晩、彼女が他の男性を好きになったと私に告げた時、私は打ちのめされました! その夜、私は一睡もせず、Divine Motherに助けを求める電話をするのを翌朝まで待ちました。
その朝、私が深い絶望感でDivine Motherと話していた時、Divine Motherが私にこうおっしゃったのを覚えています。「神様があなたを愛しています。神様はあなたの友人であり、伴侶です。私はあなたを愛しています」私はこれらの言葉を決して忘れませんが、その時与えられた愛情の深さを十分に理解できず、十分に感謝することができませんでした。私が分かっていたのはただ心の負担が取り除かれて、その日私は楽しく仕事に取り込むことができたということです。その後、1年余り鬱になったり、立ち直ったりし続けました。その年の後半、Divine Motherはマウイ島にいらっしゃって、私たちのクラの家に滞在してくださいました。その2日間、私たちがDivine Motherの前に座って、Divine Motherの息遣いとその言葉一つ一つを大事にしたことを、私はいつまでも覚えているでしょう。Divine Motherは、息子が傷ついたときに母親がするように、愛情を確信させてくださり、私はDivine Motherの特別な子供のように感じました。Divine Motherの訪問により、私の心がとても軽くなりました。
最初の一対一のセッションで、Divine Motherと一緒に座った時、Divine Motherは私の心の中に連れて行ってくださり、そこにDivine Motherが座っていらっしゃるのを見せてくださいました。それからDivine Motherは、私に無条件の愛を惜しみなく注ぎたい、とおっしゃいました。その瞬間、この暖かさと力を感じ、あまりに圧倒的だったので、私は赤ん坊のように泣き始めました。私はその時まで、このような「愛」を全く経験したことがありませんでした。その後、Divine Motherとの一対一のセッションごとに、私はいつもこの至福感、つまりこの信じられないほどの聖なる愛を体験することに恵まれました。この体験を他の人々に話すたびに、そしてDivine Motherの前に座るたびに、私はこの愛の気持ちに圧倒されて泣きやむことができません。
長い間、私はまだ、受け取るばかりで、ただ傍観者でいるばかりでした。スピリチュアル・ファミリーに新しく入って来た人が、マウイ島の自宅を瞑想のために開放した時、私は動揺しました。これが私の転機となり、ゲイリーの助けと主にDivine Motherのおかげで、ダムが決壊し、ベトナム経験の周りを守っていた壁が崩れ落ち始めました。私は初めて、ベトナムでの経験を他の人に話し始めたのです。Divine Motherは、ベトナムの経験についての気持ちを完全に変えることを、本当に助けてくださいました。Divine Motherは私に一対一のセッションを与えてくださいました。この一対一のセッションで、Divine Motherは、私を心の中でその頃のベトナムへ連れて行き、そこでの全ての経験をスピリチュアルな経験に変えてくださいました。Divine Motherはその戦争に関わった全ての人々のために、マントラを唱えるように助けてくださり、その瞬間、私の癒しが始まりました。私の恥と罪悪感が、その戦争で苦しみ、亡くなった全ての人々のための深い思いやりと愛情に変えられました。その後、30年も会っていなかったベトナムの昔の戦友が私に電話をかけてきました。彼は私を見つけたことに非常に興奮していました。私が背負っていた重荷と、どうやってそれがDivine Motherによって奇跡的に取り除かれたかを彼に話すにつれて、彼は私の深い傷跡が癒されたことを知って、とても喜んでくれました。そして、彼がどんなにその長年の間、私のことを心配していたかを話してくれました。
光栄にも私が参加させて頂いた、Divine Motherが行われた全ての集中的な指導のセッションの間、私は自分自身について多くのことを発見しました。私はずっと、弱くて、他の人を喜ばせようとし、他人に思うがままにさせてきたことに気が付きました。子供の頃から、私は魅力がなく、価値がないと感じたので、家の手伝いをしたり、人の役に立つことによって、人の注目を得ようとしました。学校では、先生たちを喜ばせようと、強いプレッシャーを感じました。私は自分に対して一切、肯定的な気持ちを抱いたことはありませんでした。私は十分に賢いということは決してありませんでした。人生のほとんどの間、私は心の中で葛藤し、夫婦関係がだめになった時、そして自分が父親、夫、また一家の大黒柱として失格だと思った時、私はどん底に落ち込んでしまいました。
今の私は、40年前、5年前、それに1年前の私でもありません。Divine Motherのおかげで、私の治癒は信じられないほどです。夫婦の絆がより強くなり、その基盤はまず神様を愛することに基づいているのです。私は妻を許し、今までなかった、彼女に対しての深い精神的な愛情を培うことができました。Divine Motherの全ての聖なる愛と、妻へのDivine Motherのひたむきな努力によって、妻も非常に変わり、私に対しても自分に対しても、より深い尊敬と愛情を持つようになりました。神様の恩寵を通して、私たち2人ともお互いに対してより良い配偶者となり、そして子供たちに対してもより良い両親になることができました。私たちは今、お互いを理解し、率直に話し合い、かつてないほど親密さと親しさを抱いています。私は以前よりずっと強い人間になり、自分をもっと尊重し、Divine Motherに言われたように、やっと強くなって家族のために光を照らすことができるようになりました。私が自分を自重するための実用的なツール[1]を与えてくださったDivine Motherを神様に感謝しています。
その上、父親を許すことができ、今では彼が人生で経験した様々な苦しみを理解し、同情することができます。母が彼女の人生を私と分かち合い、彼女を本当に知ることを許してくれるという望みを手放しました。私は母を愛し、私が成長する過程で彼女がしてくれたことを全て感謝しています。私は、私の人生の体験を自分の子供たち、兄弟、そして神様の愛の力を通して、信じられない変化が起こりうるという希望が必要な人々に、話すことによって、神様を賛美したいと思います。今、これまでの私の人生、自分自身を発見する旅、そして自分の中の神様を愛し尊敬することを学べることが幸せです。
Divine Mother、私への無条件の聖なる愛をありがとうございます。Divine Motherの愛の贈り物が私の心の中で明るく輝き、自分自身を発見する道を照らしています。私は永遠に感謝しています。
私は第2次世界大戦の終わりにカリフォルニア州のTule Lake(鶴嶺湖)の収容所で生まれ、その後父方の祖父が家族全員を日本へ連れて帰りました。若い両親にとって、慣れていない国である、戦争の焼け跡の日本で生き残ることは辛かったに違いありません。医療は進んでおらず、父は常に喘息で苦しんでいたようでした。私は乳児の時、ジフテリアにかかって死にかかりました。私たちは、私が13歳になるまで日本に住んでいて、日本での子供の頃の思い出は心地よいものではありませんでした。日本人にはアメリカ人として見られ、そしてアメリカの軍事扶養家族には「敵」と見なされ、私はのけ者にされているように感じました。
また私たちは両親の間の様々な不調和と不幸せを経験しました。私と2人の兄弟は、よく両親の暴力も口論も聞かされました。その上私は、部屋代と食事代の代わりに家事をする住み込みの女中と、父親が浮気をしているところも、目の当たりにしました。私にとってそれを見るのが非常に辛く、衝撃的でした。父はとても虐待的な男性で、繰り返し私を見下し、彼は私よりも強く、見た目がよく、彼なしでは、私は決して生きていけないとあざ笑いました。父は私の自尊心を破壊するためにありとあらゆることをしました。父は喘息だったため、あまり仕事をせず、ほとんど家にいました。私は彼のそばにいるのが常に居心地が悪かったため、私と兄弟はいつもできるだけ家の外で遊ぶようにしていました。父の気分が良くなると、私たちに野球を教えようとしましたが、あまりにも厳しかったので、楽しかった記憶は全くありません。
母と母方の祖母は私たちに対して心が広く、親切でした。振り返ってみると、母と祖母は私たち兄弟に必要な愛と安定感を与えてくれたのです。また、一生懸命働いて、米海軍の良い仕事に就いていた母のおかげで、私と兄弟は恵まれたことに私立のカトリック系の男子校に通うことができました。その時、私たちの宗教的な背景は両親と異なっていても、私たちが受けた宗教的な教育が、必要としていた安心感とさらなる感情的な支えをも与えてくれました。私たち兄弟は家にイエス様と聖母マリヤ様の聖壇があり、そこでお祈りをしていました。
私が13歳の時、私たち家族はカリフォルニアに戻り、その1年前にカリフォルニアに帰っていた父と合流しました。彼は生活が落ち着いていたようで、一生懸命庭師として働き、私たちに良い家を準備してくれました。私は痛々しいほど恥ずかしがり屋だったので、アメリカの生活に馴染むのが難しかったです。もう一つ困ったことに、私が通わされた新しい学校は男女共学でした。私はまだのけ者のように感じ、どこにも属せず、誰にも溶け込めずにいました。人種的にも社会経済的にも、私は差別されたような気がしました。間もなく、私たちの家族構造は悪化し始めました。父は健康状態がよくなったようで、また浮気をし始め、その上、債権者に追われるような投資に資金を次々と注ぎ込み、莫大な借金を負い始めました。弟が高校を終えた時、両親が離婚して、私たち兄弟は母についてロサンゼルスに行きました。私は大学に通いながらアルバイトをしましたが、これという目的もなしに、成績はほどほどで、大学の単位を取るのも遅れていました。その時でした。私が軍隊に召集され、6か月以内に、1967年に私はベトナムに行くはめになりました。なぜか、対立やけんかをその時までずっと避けてきた、私のような弱い社会性のない者が戦いに無理やり行かされたことが不公平に思われました。私はわずか19か月間、軍隊に勤め、そのうち14か月間ベトナムに行かされ、その時期が私の必死に忘れたい人生の一部となりました。
戦闘兵としてやっていけないとある軍曹に告げたため、私のベトナムの経験は恥でいっぱいでした。殺し合いと戦いでひどく精神的衝撃を受け、私は本当に気が狂いそうでした。私はその後本部に転送され、供給の事務員としての仕事を与えられました。私は自分自身とベトナムにいる兵隊皆に、特に戦死した友人や4度も負傷した友人に、不名誉なことをしたと感じました。私は前線から外された挫折感と罪悪感を乗り越えることができませんでした。私の人生のこの時期の出来事を完全に胸の中に秘め、私はベトナムのことは一切口にしませんでした。
ベトナムの後、私は大学に戻り、復員軍人援護法のおかげで歯学部に進むことができました。1975年に歯学部を卒業後、私は1年間、ホノルルのセント・フランシス病院の一般歯科の研修医として務め、生まれて初めて自分の居場所を見つけたように感じたので、しばらくの間、滞在することにしました。共同教育事業を通して、ゲイリー・ウメダと知り合って、私たちは親しい友人になりました。今日、彼は私の一番親しい友人で、彼が間接的に私がDivine Motherとお会いすることに関与しました。ゲイリーはDivine Motherを私の義母のフランに紹介して、義母は同じく私をDivine Motherの所に連れて行ってくれました。1983年に私はDivine Motherにお会いしました。Divine Motherがどのようにフランと私の義理の妹のアイリスを助けてくださったかを見ることができました。その上、ゲイリーがDivine Motherとお会いしていたと知っていて、彼に起こった前向きな変化を目の当たりにしたので、私もDivine Motherにお会いしたかったのです。Divine Motherと初めてお会いしたその瞬間から、Divine Motherはすぐに私をとてもくつろいだ気持ちにしてくださり、私のことを私自身よりも、もっと理解してくださいました。
妻のウェンディに出会ったのは病院のプログラムの後の務め先のオフィスでした。私たちは1978年に結婚しました。私たちはマウイ島に引越し、そこで私は自分の歯科診療所を開業しました。2人の素晴らしい息子に恵まれ、私の診療所は大成功し、人生はとてもうまくいっていました。これで私たちは末永く幸せに暮らせると思いました。私がその時までずっと望んでいたこと、つまり経済的な安定と健康的な家庭生活を手に入れたように見えました。しかし、どういう訳か心の空白があり、どうやってそれを埋めればいいかが分からなかったのです。スポーツや趣味を通して、その空白を埋めるものを外で見つけようと努力しているうちに、妻と子供たちにとって私は不在となりました。Divine Motherと瞑想のグループと一緒に座るために、私とウェンディは月に1度ぐらいマウイ島からオアフ島に来ました。Divine Motherと前回お会した時から私たちに蓄積した重荷を、Divine Motherは取り除いてくださいました。その当時、私は本当に頂くばかりで、Divine Motherが実際に何を下さっていたのかに気が付かず、ただDivine Motherが私を気持ち良くしてくださることに満足していました。最初ウェンディは愛情に餓えており、あれこれ構ってもらうことと、物質的に満たされることを必要としていました。彼女は私たち2人の子供に執着するようになり、他の男性たちに惹かれ始めました。1990年のある晩、彼女が他の男性を好きになったと私に告げた時、私は打ちのめされました! その夜、私は一睡もせず、Divine Motherに助けを求める電話をするのを翌朝まで待ちました。
その朝、私が深い絶望感でDivine Motherと話していた時、Divine Motherが私にこうおっしゃったのを覚えています。「神様があなたを愛しています。神様はあなたの友人であり、伴侶です。私はあなたを愛しています」私はこれらの言葉を決して忘れませんが、その時与えられた愛情の深さを十分に理解できず、十分に感謝することができませんでした。私が分かっていたのはただ心の負担が取り除かれて、その日私は楽しく仕事に取り込むことができたということです。その後、1年余り鬱になったり、立ち直ったりし続けました。その年の後半、Divine Motherはマウイ島にいらっしゃって、私たちのクラの家に滞在してくださいました。その2日間、私たちがDivine Motherの前に座って、Divine Motherの息遣いとその言葉一つ一つを大事にしたことを、私はいつまでも覚えているでしょう。Divine Motherは、息子が傷ついたときに母親がするように、愛情を確信させてくださり、私はDivine Motherの特別な子供のように感じました。Divine Motherの訪問により、私の心がとても軽くなりました。
最初の一対一のセッションで、Divine Motherと一緒に座った時、Divine Motherは私の心の中に連れて行ってくださり、そこにDivine Motherが座っていらっしゃるのを見せてくださいました。それからDivine Motherは、私に無条件の愛を惜しみなく注ぎたい、とおっしゃいました。その瞬間、この暖かさと力を感じ、あまりに圧倒的だったので、私は赤ん坊のように泣き始めました。私はその時まで、このような「愛」を全く経験したことがありませんでした。その後、Divine Motherとの一対一のセッションごとに、私はいつもこの至福感、つまりこの信じられないほどの聖なる愛を体験することに恵まれました。この体験を他の人々に話すたびに、そしてDivine Motherの前に座るたびに、私はこの愛の気持ちに圧倒されて泣きやむことができません。
長い間、私はまだ、受け取るばかりで、ただ傍観者でいるばかりでした。スピリチュアル・ファミリーに新しく入って来た人が、マウイ島の自宅を瞑想のために開放した時、私は動揺しました。これが私の転機となり、ゲイリーの助けと主にDivine Motherのおかげで、ダムが決壊し、ベトナム経験の周りを守っていた壁が崩れ落ち始めました。私は初めて、ベトナムでの経験を他の人に話し始めたのです。Divine Motherは、ベトナムの経験についての気持ちを完全に変えることを、本当に助けてくださいました。Divine Motherは私に一対一のセッションを与えてくださいました。この一対一のセッションで、Divine Motherは、私を心の中でその頃のベトナムへ連れて行き、そこでの全ての経験をスピリチュアルな経験に変えてくださいました。Divine Motherはその戦争に関わった全ての人々のために、マントラを唱えるように助けてくださり、その瞬間、私の癒しが始まりました。私の恥と罪悪感が、その戦争で苦しみ、亡くなった全ての人々のための深い思いやりと愛情に変えられました。その後、30年も会っていなかったベトナムの昔の戦友が私に電話をかけてきました。彼は私を見つけたことに非常に興奮していました。私が背負っていた重荷と、どうやってそれがDivine Motherによって奇跡的に取り除かれたかを彼に話すにつれて、彼は私の深い傷跡が癒されたことを知って、とても喜んでくれました。そして、彼がどんなにその長年の間、私のことを心配していたかを話してくれました。
光栄にも私が参加させて頂いた、Divine Motherが行われた全ての集中的な指導のセッションの間、私は自分自身について多くのことを発見しました。私はずっと、弱くて、他の人を喜ばせようとし、他人に思うがままにさせてきたことに気が付きました。子供の頃から、私は魅力がなく、価値がないと感じたので、家の手伝いをしたり、人の役に立つことによって、人の注目を得ようとしました。学校では、先生たちを喜ばせようと、強いプレッシャーを感じました。私は自分に対して一切、肯定的な気持ちを抱いたことはありませんでした。私は十分に賢いということは決してありませんでした。人生のほとんどの間、私は心の中で葛藤し、夫婦関係がだめになった時、そして自分が父親、夫、また一家の大黒柱として失格だと思った時、私はどん底に落ち込んでしまいました。
今の私は、40年前、5年前、それに1年前の私でもありません。Divine Motherのおかげで、私の治癒は信じられないほどです。夫婦の絆がより強くなり、その基盤はまず神様を愛することに基づいているのです。私は妻を許し、今までなかった、彼女に対しての深い精神的な愛情を培うことができました。Divine Motherの全ての聖なる愛と、妻へのDivine Motherのひたむきな努力によって、妻も非常に変わり、私に対しても自分に対しても、より深い尊敬と愛情を持つようになりました。神様の恩寵を通して、私たち2人ともお互いに対してより良い配偶者となり、そして子供たちに対してもより良い両親になることができました。私たちは今、お互いを理解し、率直に話し合い、かつてないほど親密さと親しさを抱いています。私は以前よりずっと強い人間になり、自分をもっと尊重し、Divine Motherに言われたように、やっと強くなって家族のために光を照らすことができるようになりました。私が自分を自重するための実用的なツール[1]を与えてくださったDivine Motherを神様に感謝しています。
その上、父親を許すことができ、今では彼が人生で経験した様々な苦しみを理解し、同情することができます。母が彼女の人生を私と分かち合い、彼女を本当に知ることを許してくれるという望みを手放しました。私は母を愛し、私が成長する過程で彼女がしてくれたことを全て感謝しています。私は、私の人生の体験を自分の子供たち、兄弟、そして神様の愛の力を通して、信じられない変化が起こりうるという希望が必要な人々に、話すことによって、神様を賛美したいと思います。今、これまでの私の人生、自分自身を発見する旅、そして自分の中の神様を愛し尊敬することを学べることが幸せです。
Divine Mother、私への無条件の聖なる愛をありがとうございます。Divine Motherの愛の贈り物が私の心の中で明るく輝き、自分自身を発見する道を照らしています。私は永遠に感謝しています。